浄土真宗本願寺派

大阪教区茨木東組

西福寺住職

 

藤 慶哉

 

 

1970年生。

本願寺派輔導使。

大阪大学経済学部卒業。行信仏教学院卒業。

2004年西福寺住職就任。同年、特定非営利活動法人るんびに太鼓代表理事就任。

2011年、教誨師拝命。

2019年、保護司拝命。

茨木市立太田中学校PTA会長、大阪府立春日丘高等学校PTA会長、日本太鼓財団大阪府支部支部長歴任。

青少年の蘇りの場『るんびに太鼓』での指導を通じ、悩み多き中高生と関わり続けている。

浄土真宗の教えをわかりやすい言葉で語る

月刊誌『御堂さん』

 

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Yさんの母親

昭和24年頃の端島全景

南部運動場での従業員慰安運動会

(下2点『軍艦島 端島労組解放記念史』より)

不思議な縁に促されて

 Yさんは、満洲国の出身。三人姉妹の次女です。一九四五年(昭和二十年)八月九日、突如としてソ連軍が侵攻してきました。取るものも取りあえず、両親に連れられて避難を始めます。指定された集合場所で待っていると、中国人の憲兵が押し入ってきて、父親を連れて行ってしまいました。日本人にとっては理想郷でも、知らず知らずのうちに恨みを買っていたのかも知れません。以来消息不明で、二度と父親に会うことはありませんでした。残された家族四人、懇意にしていた中国人の家族の下に身を寄せ、ソ連軍や人民解放軍に見つからないよう息を潜めて過ごしたのだと言います。

 翌年、日本への引揚げ船が出ると聞き、なんとか無事に乗船、日本への帰国を果たしました。親戚を頼って島根県に移り住み、母親は幼い娘たちを養うため、助産師として働き始めます。妊婦が産気づくと夏でも冬でも雨でも雪の日でも、すぐに支度をして出かけていかなければなりません。その間、娘たちは自宅で留守番です。難産だと何日も帰ってこないこともあったそうです。母親がいつ出かけるとも知れず、いつ帰ってくるとも知らない、心細い子ども時代だったと、昨日のことのように話してくれました。

 その母親が自宅にいる時は、熱心にお寺参りをされていたそうです。生き別れた夫である父親のこと、お産がうまく行かなかった母子のことを思いながらの参拝だったのかも知れません。何千人もの新生児を取り上げながらも、自身の無力さを恥入っていたのでしょうか。仏前で静かに手を合わす母親の姿が目に焼き付いているのだそうです。

 MさんとNさんは、長崎県の軍艦島(端島)から大阪に出てこられた方々です。ご主人は共にそこで働く炭鉱作業員。東シナ海に浮かぶ絶海の孤島は、かつて良質な石炭が取れる日本有数の炭鉱でした。海底深く張り巡らされた坑道にひとたび入れば、まさしく死と隣り合わせの危険な作業に従事します。落盤や粉塵爆発で仲の良い同僚が犠牲となります。家族はただただ無事を祈って、帰宅を待つしかありませんでした。

 また、ひとたび海が荒れれば、物資の供給が滞ります。狭い島内に、当時珍しかった鉄筋コンクリート製の高層アパートがそびえ立ち、世界一の人口密度と言われるほど多くの人々がひしめき合って生活していました。時化が治まり、本土からの船が着岸した時は、島全体から歓声が沸き起こったと言います。

 一九六〇年代、日本でもエネルギー革命が起こり、石炭から石油へと産業構造の大転換が図られます。国内の炭鉱は相次いで閉山を余儀なくされました。軍艦島も例外ではなく、島民全員が離職、島を後にしました。言葉も習慣も違う大阪に居を移し、第二の人生を歩み始めます。コロナ禍でも定例法座へのお参りを欠かさないお二人からは、どれほどの苦難も、しなやかに受け流す強さが感じられます。

 

道光明朗超絶せり

 清浄光仏とまうすなり

 ひとたび光照かぶるもの

 業垢をのぞき解脱をう

     『浄土和讃』(註釈版五五八頁)

 

 筆舌に尽くし難い厳しい人生を歩んできて、それでも明朗さを失わない人と出遇わせていただく時、私はこのご和讃が思い出され、この方々の上にはたらいている阿弥陀仏のご本願の確かさを知らされます。

 ご紹介した方々が特別なのではありません。お寺参りされる方々は、それぞれに理由をお持ちです。阿弥陀仏のご本願に促されるしかない理由があるのです。こうありたい、こうなるべきと思い描いていた未来とはかけ離れた現実に、立ち止まることも許されず今日まで生き抜いてきた方々が、不思議としか言いようのない縁に促され、お寺に参られます。取り止めのない世間話をしていて、ふとした折に耳を疑うような話を聞かせてくださいます。家族にも話せず、胸の奥底に仕舞い込んでいた記憶が、取り繕うこともできずに溢れ出てくることがあるのです。

 罪や障りは、取り除きようが無いほど根深く重い。地獄必定と思い定めた、この私を阿弥陀仏は必ず救うと誓われた。見捨てはせぬと願われた。辛く苦しかった記憶はいつしか清らかに洗い流され、楽しかった思い出だけが心を温めていきます。どのような境涯も往生成仏の妨げにはならないという絶対の安心が、その人をして明朗たらしめているのです。住職である私はただ聞かせていただくばかりですが、お同行の方々がそれぞれに阿弥陀仏のご本願を聞き受け、お念仏申されるのです。そのような場に何度となく遇わせていただく中で、私自身がお念仏申す身とお育ていただいておりました。今年もまた、阿弥陀仏の正意を明らかにお示しくださった宗祖親鸞聖人のご命日をご縁とし、大いなる恵みに感謝しお念仏申す、報恩講の季節がやってまいります。

(『御堂さん』令和三年十月号「報恩講法話」)