摂津十二日講

〜命をかけた法灯継承〜

■本願寺と摂津十二日講

 

  もともと、本願寺は、親鸞聖人が弘長2(1263)年にご往生され、京都東山大谷の地に、ご遺骨を納め、廟堂を建てたことにはじまります。

  第8代蓮如上人の時代、寛正6(1465)年に大谷本願寺は比叡山衆徒によって破却されます。蓮如上人は、越前吉崎、河内出口などを転々とされた後、京都山科に本願寺を再建されました。しかし、山科本願寺も天文元(1532)年、細川晴元らによって焼き払われ、大坂石山(大阪城の辺り)に寺基を移し、寺内町を整備して発展の一途をたどりました。

  その後、第11代顕如上人の時代、元亀元(1570)年に天下統一を目指す織田信長と本願寺との間に石山合戦が起こりました。この本願寺の一大事に近郷近在の浄土真宗の僧侶・門徒は大坂石山に馳せ参じ、信長の軍勢に対して鎌や竹槍を武器に一歩も引かず身命をなげうって、11年もの間、戦い抜きました。

  結局、顕如上人は天正8(1580)年、信長と和議を結び、大坂石山を退去して紀伊鷺森に移られることとなりました。

  この石山合戦における島上、島下両郡の門徒達に対して、天正10(1582)年9月10日、顕如上人より御消息が下付され、第10代証如上人のご命日の前日(12日)に法座を開いたのが摂津十二日講の名称の由来です。

  以降、毎月12日に法座を開き、特に本願寺より御使僧をお迎えし、ご歴代の宗主から下付された御消息を親しく拝読する御消息披露法要が、実に430年以上もの長きにわたり連綿と継続されています。


■摂津十二日講の現況

 

  現在の摂津十二日講の講域は、行政上では島本町・高槻市・茨木市・摂津市・吹田市・豊中市の東摂地域に集中しており、本願寺派の宗政組織でいうと、島上北・島上南・島上西・茨木東・茨木西・島中南・島下の七組に所在する130ヶ寺で構成され、さらに十二日講の組織は西国街道を境に街道上・街道下と中下組の3組織に分けられ、それぞれ講長・役員によって運営されています。

  また、摂津十二日講は株型式と法座連番制を採用しており、株型式とは1株単位として合わせて38株あり、1株は4年毎に、半株は8年毎に、3分の1株は12年毎に、4分の1株は16年毎に輪番制で法座が営まれ、この株型式の持ち株制の歴史は古く、石山合戦当時に参戦した僧侶・門徒の人員や功績などによるものと伝えられています。

■本願寺御歴代宗主から下付された御消息

 

  摂津十二日講に対し、御歴代宗主から十三巻の御消息を下付されており、現在、御消息披露は複製によって行われているため、御親筆の御消息は春慶塗の唐櫃に納め、蝦錠を施錠されて丁重に本照寺に保管されています。

 

○本願寺第11代 顕如上人 天正10(1582)年

    本願寺第12代 准如上人 元和年間

    本願寺第13代 良如上人 承応3(1654)年

    本願寺第14代 寂如上人 延宝6(1678)年

    本願寺第15代 住如上人 不詳

    本願寺第17代 法如上人 宝暦4(1754)年

    本願寺第18代 文如上人 寛政4(1792)年

○本願寺第19代 本如上人 文化8(1811)年

    本願寺第20代 広如上人 天保2(1831)年

    本願寺第21代 明如上人 明治18(1885)年

    本願寺第23代 勝如上人 昭和19(1944)年

    本願寺第24代 即如上人 昭和56(1981)年

○本願寺第24代 即如上人 平成20(2008)年

 

  かつては全巻の御消息を拝読していましたが、現在は○印の三巻の御消息のみ拝読されています。

■式次第  十三時

一、喚鐘

一、開式の辞

一、挨拶  総代

一、開扉

一、開座の言葉  講長

一、入堂、着座

        御導師組長  住職

一、勤行「仏説阿弥陀経」

一、勤行終了後  退出

        (休憩  十分間)

一、庭儀  御消息入堂

一、達書伝達

一、御消息拝読披露  三巻

一、恩徳讃唱和

一、庭儀 御消息退出

一、挨拶  住職

一、閉座の言葉

一、挨拶  総代

一、閉扉 

一、閉式の辞

以上、 2017年2月執行。

 

 ・次回、西福寺での摂津十二日講  御消息披露法要は、2028年9月の予定です。